[栃木・那須] 那須温泉・白鹿 伝承・開湯から史料にみる那須温泉


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那須温泉・白鹿 伝承・開湯から史料にみる那須温泉

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〒325-0301 栃木県那須郡那須町湯本182
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那須温泉・温泉知新☆彡

[ 那須温泉 ]

ワンポイント情報☆彡

 

 

那須温泉の開湯と白鹿 伝承

 

・那須温泉の開湯は古く、第34代舒明天皇の御代(630年頃)にさかのぼると、温泉神社(那須町湯本)の社伝、伝承があり、温泉発見においても、日本で32番目という古湯です。
・発見伝承では、白鹿が温泉で矢傷を癒しているところを発見したと伝わる。共同浴場の名前「鹿の湯」にその由来が残っている。

 

 この白鹿の矢傷は、茗荷沢村(みょうがさわむら・那須町高久乙)に住む郡司の狩野三郎行広が狩りの時、射損じた白鹿を追いかけて、霧雨が谷(現・鹿の湯あたり)で、自身を「温泉の神」と云う白髪の老翁が現れた。そして、その老翁のことばに従って白鹿を探したところ、温泉に浸かり、矢傷を癒している白鹿を発見し射止めた。狩野三郎行広は、温泉の杜(現・那須温泉神社)を建立、この白鹿の角を奉納したと云われています。

 

史料などにみる那須温泉

 

◆正倉院文書の「駿河国正税帳」にみえる記述では、
 738年(天平10年)に、従四位下 小野牛飼が湯治で那須湯(なすのゆ)に行くため、従者12人と都から下り、駿河国を通った記録がある。

 ・正倉院文書『駿河国正税帳』

 ・塙静雄著『とちぎの社寺散歩』下野新聞社、2003年

 

 このことから、奈良時代には、中央官人が那須温泉を湯治場として認知していたことがわかる。

 

◆『日本三代実録』に、従四位上勲五等下野国温泉神の記述がみえる。

 ・『日本三代実録』貞観五年十月七日 丙寅の条

 ・ 『日本三代実録』貞観十一年二月二十八日 丙辰の条

 

 このことから、863年(貞観5年)頃までには、日本の政庁の重要温泉場のひとつに位置付けられていたことが分かる。

 また、那須は温泉信仰が篤い地域であることが。当地の「温泉神社(おんせんじんじゃ・ゆぜんじんじゃ)」、「湯泉神社(ゆぜんじんじゃ)」など温泉を祀る社が80社ほどあることからもわかる。

 

◆ 鎌倉時代 成立の『平家物語』の巻第十 四「那須与一」では、

 

 屋島の戦いで、那須与一が敵船上に揺れる扇の的を射当てる際に「南無八幡大菩薩、別にしては我国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の温泉大明神、願わくば、あの扇の真ん中射させてたばせ給え」と祈念したという説話に「那須の温泉」が登場する。

 

 ・『平家物語』巻第十 四「那須与一」

 

◆ 1645年(正保二年)、盛岡城主・阿部対馬守より将軍家に出された「湯治願」が残されている。

 

◆ 江戸時代、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の前半に訪れた。

  句碑が、殺生石(栃木県那須郡那須町湯元)の近くに立っている。

 

  「石の香や夏草赤く露暑し」元禄2年4月19日

  (いしのかや なつくさあかく つゆあつし)

 

 この句は、『曾良旅日記』十九日の項にみえる。

 「石の香や夏草赤く露あつし」
 (萩原恭男校注「曾良旅日記」『芭蕉おくの細道』岩波文庫、2008年、p. 90)

  

 

◆ 江戸時代後期から明治時代、『温泉番付』では、諸々の番付において東の大関 草津温泉に次ぐ東の関脇に位置付けられた。

 

 ・「大日本温泉一覧 廿世紀見立改正新版」明治41年、片田長次郎印刷(東京日本橋区馬喰町四丁目拾番地)

 ・ 「諸国温泉功能鑑」墨屋小兵衛(烏丸通松原下町)

 

◆ 太平洋戦争前出版の『温泉案内』鉄道省では、「那須温泉郷」との表記がみえる。

 

 

参考資料とリンク

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2020年07月24日